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祭り情報

時代祭りなど京都の祭りの特色②



祇園祭に始まり、京都にはたくさんの伝統ある祭りがまだまだ存在します。その中でも祇園と並び「京都三大祭り」と称される二つの祭りと「大文字」の名で知られる京の夏の風物詩についてご紹介します。

平安貴族の行列を再現する「葵祭」

平安貴族の行列を再現する「葵祭」

毎年5月に開催される賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭であり、元々は「賀茂祭」という名の祭りでした。平安貴族の王朝行列を現代にそのまま再現した行列が特に有名で、検非違使や牛車など総勢500人を超える列が市内を練り歩く様子は古都京都ならではの風景です。

6世紀頃の欽明天皇の時代、国中が風水害に襲われ作物が育たず困窮していたところ、原因を占ってみると賀茂大神の祟のせいであるという結果が出ました。そこで4月の吉日を選び、馬に鈴を懸け人は猪頭をかぶって競争するという祭礼を開かせると災害は収束し、再び五穀豊穣の時代が訪れたといいます。これが賀茂祭の始まりであり、弘仁10年(819年)には朝廷によって中祀に準じて行なわれる国家行事にまでなり、貴族の間では「『祭り』といえば賀茂祭り(葵祭)」として『源氏物語』に描写されるほど有名な祭りになっていきました。また流鏑馬騎射(当時は騎射)などの神事が奉納されるようにもなり、神社への貴族たちによる華やかなパレードが行なわれるなど現在の祭りの形式もこのころに完成していたといいます。しかし室町時代以降はその勢いも衰え、応仁の乱をきっかけに一時断絶してしまいましたが、1694年(元禄7年)になって再び開催されるようになり、当日出される牛車や衣装、寺社の暖簾など全てを神社から奉納された葵の葉で飾るようになったことから「葵祭」と呼ばれるようになりました。

祭り当日は「宮中の儀」・「路頭の儀」・「社頭の儀」という三つの儀から成り立ちますが、現在は平安貴族の行列が市内を練り歩く路頭の儀と、二つの神社に着いてから行われる社頭の儀のみが行われています。社頭の儀は列が到着した際両神社の社頭で行われ、勅使が御祭文(祝詞)及び御幣物を捧げた後、神馬のひき回しや「東遊」が奉納されるというものです。

また流鏑馬や賀茂競馬などの伝統神事は葵祭の前祭として本番より前にそれぞれの神社で奉納されています。

路頭の儀は葵祭のメインイベントとして知られる平安貴族行列の巡行であり、京都御所をスタート地点として下鴨、上賀茂神社の順に市内を練り歩いてきます。総勢500人に及ぶ行列は「近衛使代」が主役の本列と「斎王代」が主役である斎王代列(女人列)の二組にわかれて巡行されます。それぞれの列は主役が搭乗する豪華に飾られた牛車を中心に、騎馬隊、役人、文官、巫女など当時の様々な役割に扮した人々で構成される行列は、京の風景と相まって平安時代からタイムスリップしてきたかのようです。

平安神宮の例祭である「時代祭」

明治28年(1895年)に桓武天皇による平安京への遷都1100年記念として、また明治維新による改革で疲れを見せていた京都の町おこしと活性化のために創建された平安神宮の例祭であり、平安京に都が移った日、いわば京都の誕生日である10月22日にそのことをお祝いしようと始まった祭りです。京都の生まれた日にちなみ、「一目で京都の今までの歴史と文化が理解できるもの。他所では真似のできないものを」というコンセプトのもとに考案され、明治時代から桓武天皇の延暦の時代までを遡って表現する時代風俗行列が行なわれることとなりました。

この行列は「平安講社」という市民組織によって運営されており、現在は全8の時代を20の行列に分割して行列が構成されていますが、参加人数は約2000人、長さは約2㎞にも及びます。行列の衣装や調度品は全て時代考証が重ねられた上で京都の伝統工芸技術を駆使して造られた本物といっても差支えのないものが使用されており、単なる仮装ではない時代そのものを蘇らせた行列が京を練り歩くのです。祭りでは平安神宮の御祭神である桓武天皇と孝明天皇を宿した御鳳輦に伴い、京都御所から平安神宮までの約4.5㎞を明治時代の行列から巡行していくのですが、これは両天皇に現在の京都と住民たちの様子をご覧になっていただくという「神幸祭」でもあります。

祭り当日の時代行列では順番に、

  • 桂小五郎立ち維新志士や維新勤王隊が並ぶ「明治維新時代」
  • 徳川幕府は朝廷の重要な儀礼の際には必ず城使を上洛させていたことを再現した「江戸時代」
  • 織田信長公の上洛や豊臣秀頼公初の参内の様子を表現した「安土桃山時代」
  • 平成19年桓武天皇の1200年大祭を記念として新たに加わり、足利将軍をはじめ当時の武士たちの軽武装姿を表現した「室町時代」
  • 後醍醐天皇の還幸にあわせ、京より上洛する楠正成の様子を再現した「吉野時代」
  • 平安朝以来行なわれるようになった流鏑馬神事を行なう姿を表現した「鎌倉時代」
  • 平安中期以降、藤原氏が隆盛を誇った時代の文武両道を嗜む服装の姿を表現した「藤原時代」
  • 坂上田村麻呂、朝廷に向かう公卿諸臣たち延喜時代の武・文官の様子を再現した「延喜時代」

以上8時代の行列が時を遡りながら姿を表していきます。また両天皇の御神幸列は延喜時代の後ろから続いており、全行列の中心的存在となっています。これらの行列は両天皇に現代の様子を伝えるだけでなく、今を生きる我々にも京都の歴史を伝えてくれる貴重な時代絵巻でもあります。

京都の夏の風物詩「五山送り火」

毎年お盆の8月16日、現世に帰ってきたご先祖様たちの霊をあの世へ送り返す「送り火」が京都の夜の山では盛大に行なわれます。それぞれ燃やす資材や火床の作り方なども異なりますが、

  • 生きている人間と霊双方への無病息災などの願いを市民の人たちに書いてもらった護摩木が資材とされ、山上の弘法大師堂で般若心経が唱えられた後に点火される、五山送りの中で最も有名な東山如意ヶ嶽の「大文字」
  • 護摩木ではなく普通の割木を資材とし、読経の後簡易保険局のからの合図で西と東の山両方が一斉に点火する松ヶ崎西山、東山の「妙・法形」
  • 若中と中老・年寄を合わせた50人によって運ばれた割木を資材とし、麓に位置する西方寺で鳴らされる鐘の音を合図に炎が点火される、霊をあの世まで運ぶ船の形をした西賀茂船山の「船形(船形万燈籠)」
  • 東山に対してこう呼ばれており、金閣寺門前で集められた護摩木を資材として炎を焚き、それを用いて一基の親火松明と40本分の基手松明に火をつけていく、金閣寺が麓に位置する寺大北山(大文字山)の「左大文字形」
  • 当日の午前8時から松明を用意し、午後4時頃から「じん」という松の根部分を小分けして束にしたものを火床の上に設置し、五山で最後の点火合図を待つ嵯峨曼荼羅山(嵯峨仙翁寺山、万灯籠山)の「鳥居形」

以上、五ヵ所五種類の送り火が数分ごとに行なわれています。「大文字焼き」として有名な東山如意ヶ嶽のものを代表に、どれも大きな文字と絵柄の形をした印象的な炎が山に浮かび上がり、お盆のさみしげな夜を明るくてらしてくれています。

これら五山の送り火が京都の夏の風物詩として定着したのはお盆の原型である盂蘭盆会など仏教行事が日本に伝来して以降、送り火・迎え火を焚くお盆が行事とし人々の間に浸透して以降であると考えられていますが、具体的な起源がいつであるかは明らかになっていません。また五山それぞれの文字焼きが行なわれるようになった由来についてもそれぞれの山毎に諸説があり、大文字一つとっても平安時代初期に弘法大師が始めた、室町時代に足利義政が始めた、江戸時代に近衛信尹が始めたとハッキリしていません。これは五山送り火も現在でこそ立派な祭りとして広まっていますが、元々は京都の人々が民間行事であるお盆の一環として行なうものだったため、正式な記録にその由緒が書き残されるようなものではなかったのではないかと考えられています。それがどのように発展してきたのかも定かではありませんが、「送り火」が現在多くの人によって支えられ、伝承され、愛され続けられていることに変わりありません。精霊送りの仏教行事として、また京都の夏に欠かせない祭りとして、今後も京の夏の風物詩として親しまれていくのではないでしょうか。