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祭り情報

大和郡山お城祭りなど奈良県の祭りの特色



古くは平城京を都としていた奈良県は日本を代表する古都であり、聖徳太子ゆかりの法隆寺東大寺、奈良の大仏に阿修羅像など数多くの国宝を持つ歴史ある都です。もちろん祭りも古き伝統行事を残しているものや仏教に由来するものまで貴重なものが多く伝承されています。

春日若宮の「おん祭」

春日若宮の「おん祭」

毎年12月に奈良の一年を締めくくる行事として知られ、世界遺産としても有名な春日神社の摂社・若宮神社の御祭神である天押雲根命(あまのおしくもねのみこと)を祀るために始まったとされる祭りです。天押雲根命は水を司る神であり、長承の時代長年に渡る大雨によって飢饉と疫病が蔓延した際、関白である藤原忠通公が天候改善を願い、現在の春日に御神霊を歓請して奉ったことが「おん祭」の始まりでした。そのご利益は確かなもので、無事水害からも逃れた人々は、以降も感謝と五穀豊穣を祈っておん祭を行なうようになり、現在まで途切れることなく続けられています。

祭りには様々な祭事がありますが、中でもメインイベントとなるのは「お渡り式」と「お旅所祭」です。「お渡り式」は神子、流鏑馬、田楽など様々な伝統芸能で構成された行列が奈良市内を通り御旅所まで向かうというものですが、通常の神輿行列などと違うのは、お渡り式前にすでに神様が御旅所までたどり着いているという点です。おん祭では当日の午前0時、暗闇の厳かな雰囲気の中若宮様を御旅所までお連れする「遷幸の儀」と呼ばれる行事が行なわれているため、お渡り式は神様をお連れするのではなく神様のもとへ馳せ参じる行列なのです。

行列が御旅所まで無事たどり着くと、当地では「御旅所祭」が盛大に行なわれます。はじめに神様へ神饌や祝詞が捧げられ、その後行宮前に設置された芝舞台上にて神楽、田楽、様々な舞楽などの神事芸能が7時間以上にかけて奉納されます。奈良に伝わる貴重な伝統芸能の数々が次々と演じられるこの時間は、歴史的資料としてもとても非常に価値のあるものです。この奉納が終わると神様が若宮神社へ戻られる「還幸の儀」が遷幸の儀同様暗く神秘的な雰囲気の中行なわれ、最後は社伝の神楽が演じられて祭りは終了となります。古の伝統と芸能をそのままの形で伝えてくれている、日本を代表する古都奈良ならではの祭りです。

陀々堂の鬼はしり

毎年1月に五條市の念仏寺陀々堂で開催されている「火祭り」の伝統行事で、火の点いた松明をかざしながら父・母・子の三匹の鬼が堂内を走り回り、新年にあたって災厄を祓い招福を祈るという行事です。これは室町時代から続く伝統でもあり、新年に豊穣を願う仏教行事の「修正会」及び、邪気穢れとともに鬼を追い払う「追儺」でもあります。

祭りが始まると、火と水を司る「火天」「かわせ(水天)」によって、火祭りの安全を願っての松明を「水」の字状に大きく振り回す「火伏せの行」が行われます。その後行者たちによって一~三番松明にまで火が点けられ準備が整うと、いよいよ鬼が登場します。

燃え盛る火炎と同様、厄払いの効果があるとされる太鼓や法螺貝の轟音と共に堂の北戸口から出現する鬼の姿は迫力満点です。鬼は行者から火を受け取ると手に持った斧を構えた後、炎とともに中央に移動します。すると次の鬼が出現し、最初の鬼が同様に南へ移動すると今度は三匹目の鬼が炎を伴って現れます。こうして北・中央・南の戸口全てに三匹の鬼が出揃い、燃え盛る炎同様祭りの盛り上がりも最高潮を迎えます。この後は最初の鬼が南口から壇裏を通って再び北に移動しますが、この三匹による北→中央→南→再び北という周回を3度繰り返します。周回が終わると鬼たちは境内に降り、水天井戸に礼参りをして祭りは終了となります。

その迫力ある姿は市初の重要無形民俗文化財に指定されたほどですが、この鬼たちは節分のように災厄として追い払われるのではなく、逆に穢れを払ってくれるありがたい存在として市民の方たちにとっては馴染み深い存在なのだそうです。

大和郡山お城まつり

毎年4月に行なわれる祭りで、大和郡山城を中心として郡山市を代表する様々なイベントが行なわれます。

大和郡山城は天正8年(1580年)に大和を統一した筒井順慶によって築城されたのですが、主君である信長の死による混乱の末順慶本人は間もなく逝去してしまいました。彼の後を継いだのは豊臣秀吉の弟・秀長であり、彼は100万石の領主の居城としてふさわしいものに郡山城を改築しようとしたのですが、そのために周囲の神社仏閣などから大石、墓石、お地蔵様に至るまで建築材料となるものはなんでもかき集めました。そのため、城内の天守台や城の石垣の中などにはそれらの誰ともわからない墓石や地蔵が埋まっている状態になってしまいました。時は流れて昭和36年(1961年)、当時の観光協会会長の広瀬氏は「これら石仏たちの諸霊を慰めることが市の発展に必要である」と考え、自ら市民たちより資金を集め、1080個もの数珠により天守台を取り巻き中に埋められている仏様たちを慰める「数珠くり法要」を行なうようになりました。翌年以降この法要は桜の時期に開催されていた郡山の名物「金魚品評会」と同時期に行なわれるようになったのですが、これを機に郡山の各イベントも同時に開催するようになっていき、現在の「お城まつり」の形が作られていきました。

江戸時代から藩主たちの楽しみであったとされる城内の見事な桜たちは昼間見るのもいいですが、ぼんぼりが灯されライトアップされる夜桜は必見です。日本の桜100選にも選ばれているほどで、その光景を見に大阪や遠くから多くの人が毎年訪れています。また「数珠くり法要」や「金魚品評会」と同様時代行列や市民パレードの巡行も各地で行なわれ、光に照らされたお城を中心に市内全体が桜の季節ということを賑やかに感じることができる祭りです。