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祭り情報

新居浜太鼓祭りなど愛媛県の祭りの特色



四国の西北に位置しみかんを特産品とする愛媛県はかつて伊予国と呼ばれ栄えていました。その当時の隆盛を残すかのように四国内でも広大な土地や名所を持ちますが、瀬戸内海をはじめ海に広く面することから他県同様祭りの由来となるような文化の交流や伝播も盛んでした。

新居浜太鼓祭り

新居浜太鼓祭り

瀬戸内海に面した新居浜市全体で毎年10月に開催される祭りで、「太鼓台」と呼ばれる天幕や房、飾り幕に刺繍が施された豪華な山車総勢51基が男たちに担ぎあげられながら市内を練り歩き、各地で太鼓同士の力比べである「かきくらべ」が行なわれる豪快な「男祭り」です。

この太鼓台は元々山車のひとつとして神輿の御神幸の際行列をなしていた中の一台であり、五穀豊穣を感謝して氏神様へ奉納するという役割を持っていました。その起源も何時頃から祭りに定着したかも定かではありませんが、江戸後期より瀬戸内海の沿岸を中心に多く記述が見られる「神輿太鼓」が段々太鼓台と呼ばれるようになったと考えられています。当時の太鼓台はとても小さく質素なものでしたが、経済の発展とともに大型化や飾り幕や刺繍が付けられるようになり、明治中期には現在のような豪華な造りになっていたといいます。しかし豪華になった太鼓台は段々と地域同士での対抗意識を生むようになり、他の地域より豪華ですごいものをと各地で個性豊かかつ重量感のある太鼓台が生まれることとなりました。

重さ約3トン、高さ5.5mにもなる重厚な太鼓台は一台の巡行につき男性が150人ほども必要になり、さらに巡行中には太鼓から豪快な音が打ち出されることから、各町の太鼓台が出揃うこの祭りは勇壮な「男祭り」として知られるようになりました。そしてその名前を印象強くする、祭り一番の目玉行事が太鼓同士の「かきくらべ」です。市内を練り歩く51台の太鼓同士が複数同じ場所に揃った時に発生する戦いで、太鼓台か車輪部分を外して直接太鼓を男たちが肩に担ぎ上げ、指揮者の合図のもと神輿のように太鼓を持ち上げていきます。かきくらべとはこの持ち上げる様がいかに優れているかを競い合うもので、担ぎ手(かき夫)たちの腕力とチームワークが問われるまさに男同士の勝負です。太鼓自体の職人技によって造られる装飾もさることながら、これらの熱いが繰り広げられる太鼓祭りは美しさと力強さの両方を備えた祭りとして、「四国三大祭り」の一つに数えられています。

うわじま牛鬼まつり

愛媛県の南予地方に位置する宇和島市にて毎年7月にて開催されている夏祭りで、宇和島のシンボルともいえる存在「牛鬼」を中心に、神社や市内各地で様々なイベントが執り行なわれます。山家清兵衛を御祭神とし日本一の大きさを誇る大鳥居を持つ和霊神社の例祭である「和霊大祭」と同時に行なわれており、牛鬼とともに神輿の巡行なども市内で行なわれます。

まずこの「牛鬼」がどんなものかというと、迫力ある鬼の顔、牛のような立派なツノ、長さ6メートルにも及ぶ胴体に長い首、そして剣を模した尻尾を持ち、全身を真っ赤な布もしくは棕櫚で作られた毛皮に覆われている、恐ろしい妖怪を模した山車のことです。このように一見すると怖い妖怪ですが実は悪霊や厄を追い払ってくれる魔除けの妖怪であり、古くから宇和島各地の行事にはお馴染みの存在となっています。祭りの期間中には市内にたくさんの牛鬼が竹筒に穴をあけた「かいふき」という笛を吹く子供たちと一緒に現れ、家々に長い首を差し込んでお祓いをしながら練り歩いていきます。

この牛鬼が宇和島で出されるようになったのは文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が加藤清正を朝鮮へ送り出した文永の役において、清正が朝鮮軍相手にとった画期的な戦法が由来とされています。彼は敵の城からの攻撃を防ぐため、また驚かせて相手の戦意を削ぐために「亀甲車」を造りました。これは兵士が中に入れる箱型の車で、外側を堅く覆っているため相手の攻撃を防御できるというものでした。清正はさらにその上から牛の皮で覆い、先端に牛の生首を差した棒を高くかかげて敵を恐怖させながら攻撃をしかけたそうです。この活躍に感銘を受けた藤堂高虎が宇和島の民に亀甲車のことを伝えたのが、牛鬼の始まりだといわれています。とはいえ現在の牛鬼すべてが高虎の話そのままに作られたわけではなく、地方などによって差異を生じながら現在の形になっていたと考えられていますが、牛鬼はすっかり魔除け(敵の攻撃を防ぐ)存在として宇和島に定着しています。

祭り中に行わるイベントは様々で、たくさんの牛鬼が街を歩きながらお祓いしていく「牛鬼パレード」は牛鬼好きにはたまりません。他にも出現宇和島が誇る新しい踊りである「うわじまダイヤカーニバル」「打ち上げ花火」17世紀後半に宇和海を漂流していたオランダ船から伝わったという「闘牛大会」など、宇和島ならではの文化を伝える催しが多く開かれます。もちろん和霊大祭の神事も見どころはたくさんで、先頭を道の厄を払ってくれる牛鬼が担当した神輿の神幸や、祭りの最後に勢い良く宮入りを行なう「走り込み」は祭りの名物になっています。牛鬼が中心となったこの祭りは、どの催しもここでしか見ることの出来ない珍しい光景ばかりです。

松山まつり

昭和41年から始まった松山市の夏祭りであり、毎年8月、松山城下の公園などを舞台に「野球拳踊り」と「野球拳サンバ」を踊り明かすという珍しいイベントです。

この祭りが始まったのは、松島も徳島の阿波踊りや高知のよさこい祭りのように名物となる踊りを作りたいという思いからでした。そこで全く新しい踊りかつ市全体の夏祭りとなる期待を込めて、能の舞を参考にした「伊予の松山鼓踊り」が完成しました。第一回を「松山踊り」(現在の松山まつり)としてお披露目となったこの踊りでしたが、全く新しい踊りということが裏目に出てしまい今ひとつ市民に人気を得ることができませんでした。

そんな中、大正13年(1924)、高松市に屋島グラウンドが完成し、お祝いに近県実業団同士の野球大会が開催され、伊予鉄電の野球部が市を訪れていました。そんなある試合後の夜、市内の旅館で伊予鉄電の選手たちの懇親会にてかくし芸大会が開かれたのですが、その大会中の一環として伊予鉄電野球部副監督であった前田伍健氏が「野球拳」の歌と振付けを生み出し、選手たちもユニフォーム姿で踊ったところ大好評となりました。その後野球拳は松山中で評判となり、宴会芸の定番として広まっていきました。あまり受けなかった松島鼓踊りの代わりを探していた松山踊りはこのブームに目をつけ、松山市民たちに溶け込んでいた野球拳が祭りで踊られるようになったのでした。これを機に第7回から名前も現在の「松山まつり」となり、市民の間でも夏の祭りとして定番となっていきました。そして平成元年、松山市制百周年記念として第24回から新たに「野球拳サンバ」も始まり、チーム毎に個性的な衣装や踊りを演出できるとして野球拳同様メインイベントとして現在も定着しています。

こうして市民たちの心を掴んだ松山まつりは阿波踊りたちに並び、「四国四大祭り」とも呼ばれるまでになりました。祭りの前後には松山港での花火大会や松山城のイルミネーション、各種露店が並ぶこともあり、すっかり松山の夏の風物詩になっています。